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知っておきたい南東部アフリカ諸国|マラウィ共和国

脆弱な経済基盤からの脱却を目指すマラウィ共和国

アフリカ大陸南東部に位置するマラウィ共和国は、そのほとんどが森林やサバンナ、マラウィ湖に覆われており、南北に約400km伸びている縦長の内陸国です。

そのため耕作地に適している土地は国土の3分の1程度であり、人口の約80%の人々が何らかの農業に従事しているため、その依存度は非常に高くなっているのが現状です。

主要産業の課題

天候などに左右される農作物は、国際市場での価格が大きく変動しやすく、主要産業を農業に頼っているマラウィ経済はとても脆弱になっています。しかも人口の約80%の人々が農作業に従事しているため、2007年度の貧困率が約70%にも達していました。

近年は、主要な輸出作物であるタバコの値段が安定していることもあり、2008年や2009年と順調な経済成長を遂げ、貧困率も改善すると予想されています。

しかし、天候や市場の動向次第では、さらに貧困が進んでしまう可能性があるため、農業生産性の拡大や安定した食料確保が課題となっています。

社会的サービスの向上

マラウィ共和国は、2012年度の一人当たりGNIが320米ドルしかなく、農村部などで生活している貧困層に対する基礎的社会サービスへのアクセスが十分ではありません。

教育や医療での主な指標でも、その他のアフリカ諸国に比べて未だに低いままです。

さらに、中等教育での学校や教室が慢性的に不足しているため就学率が非常に低く、国家資格を持っている教員も足りていないのが現状です。

マラウィの国家開発戦略「Vision2020」や「マラウイ成長開発戦略 」では、教育政策を重要分野と位置づけており、貧困層に対する教育へのアクセスや質を向上させることが課題の一つであるとしています。

マラウィの人口は、今後も増加することが見込まれている中で、基礎教育を優先項目としつつ中等教育の就学率の増加や施設の充実が最も必要とされています。

豊かな自然を活かす

農作物の国際価格に依存している農業頼みの産業構造の改善策のひとつとして、マラウィ政府は日本の大分県発祥の「一村一品運動(OVOP)」を手本にしています。

マラウィにも一村一品運動を管理する事務局を設置することで、地元農林水産物の加工技術や品質の改善などに取り組んでいます。

また、国の北東側に広がるマラウィ湖は、約200万年前にできた古代湖でマラウィ湖国立公園として1984年には世界遺産に登録されています。

さらにマラウィ湖は、国土の4分の1を占める広大な湖で、5000種類以上の多様な固有種の魚類が生息しているそうです。

ここで捕れる魚は地元住民の貴重なタンパク源となっているため漁業も盛んに行われています。

途上国を脅かす衛生問題

マラウイ共和国では年間約80万人の人々が、エイズ(23.7%)、下気道感染症(10.0%)、マラリア (9.7%)などで命を落としてしまいます。

アフリカの国々などの貧しい途上国では、衛生問題に対して十分な対策を講じることが出来ないため伝染病の蔓延が問題となることが多いためです。

その中でマラウィも例外ではなく高いHIV感染率が長年の課題になっています。

しかしエイズ患者の増加とともに医師の不足も深刻になっており、現地ではエイズ治療に効果のある抗レトロウイルス療法(ART)の無料配布プログラムなどの支援を受けています。

エイズ孤児を支援してるマドンナ

エイズによって親を失ったエイズ孤児も増加しており、アメリカの人気歌手マドンナがマラウィの孤児たちを養子として引き取っていることは有名な話です。

さらにマドンナは、自身が設立した慈善団体「レイジング・マラウイ(Raising Malawi)」と国際NPOの「buildon」と共同で、首都のリロングウェ郊外に約1500万ドルをかけて複数の女子校や病院を建設するなど、積極的なマラウィ支援に乗り出しています。

マラウィ共和国の歴史

マラウィ共和国はかつて、この地域に存在していたバンドゥー系民族のマラビ族が建てたマラビ帝国の一部でした。

現在マラウィ共和国の人口の大部分を占めているチェワ族の先祖と言われているマラビ族は、今のコンゴ共和国がある地域から疫病や社会的騒乱などから逃れるためにマラウィ湖周辺に移住してきました。

そのため現在のチェワ族は、比較的穏やかな性格の人々が多く、”チェワ”の語源も「外国人」を意味していると言われています。

また、マラビ族がこの地域に来た時に、マラウィ湖の湖面が太陽光で炎のように揺らめいていたことから、この地域をチェワ族の言葉で炎を意味するマラウィと名付けたとされています。

イギリスの植民地時代

マラウィ共和国は、スコットランドの探検家「デイヴィッド・リヴィングストン」により発見され、19世紀後半にその他多くのアフリカ諸国と同様にイギリスの植民地となりました。

その後は、1891年イギリス中央アフリカ保護領となり、1953年には、北ローデシア(現ザンビア)と南ローデシア(現ジンバブエ)と合併させられローデシア二アサランド連邦と改名されました。

そして1964年のイギリスからの独立とともに国名もマラウィに戻されています。

国旗に含まれる赤の色は、アフリカの自由のために殉じた人々が流した血が表されています。

また、黒にはアフリカ大陸の人々、緑にはマラウィの豊かな自然、そして中央の太陽は希望と自由の夜明けと言う意味が込められています。

独自路線を歩んできた外交関係

独立後の1966年には、憲法によりマラウィ会議党以外の政党を結成することが禁じられるとともにマラウィ共和国となりました。

当時のマラウイ共和国のバンダは終身大統領として、1993年の国民投票による多党制が導入されるまでの約30年近くに渡ってマラウィ会議党の一党体制の指導者でした。

その影響もあり、近隣諸国がアパルトヘイト政策を行う南アフリカと距離を置いていたのに対し、マラウィ共和国は貿易協定を結ぶなど、白人支配国との友好関係路線を進めたのが特徴的とされています。

これにより南アフリカからは多額の支援を得ることが出来ましたが、近隣諸国からは非難を浴び関係が悪化してしまいました。

しかし、近年は、マラウィ共和国が加盟しているアフリカ連合(AU)や南部アフリカ開発共同体(SADC)の場で積極的な活動を行っており、良好な外交関係を保つことが出来ています。

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1977年生まれ 宮城県出身 東京在住 調理師 ビジネスを通じて途上国・先進国の課題を解決することを目的に設立された 『MONSOON JAPAN』の一員として活動しています。