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長距離競技の陸上王国はアフリカ最古の独立国 エチオピア連邦民主共和国

長距離競技の陸上王国はアフリカ最古の独立国 エチオピア連邦民主共和国

エチオピア連邦民主共和国は、アフリカ大陸東部に位置する連邦共和制国家で、ソマリア・ケニア・スーダン・エリトリア・ジプチに囲まれている内陸国です。アフリカ最古の独立国として知られており、ナイジェリア連邦共和国に次ぐ2番目に人口が多い国。

首都アディスアベバは、世界の都市80位にも選ばれるなど、アフリカ有数の都市ケニア共和国の首都ナイロビに次いで東部アフリカ諸国の経済・文化の中心都市です。

また、アフリカ諸国で唯一植民地支配から逃れたエチオピアは、3000年の歴史や文化を有し、アフリカ連合(AU)の本部があるアフリカ諸国の政治の中心地でもあります。

エチオピア高原が育んだ強靭な身体能力

アフリカ大陸東部にある南北に走るアフリカ大地溝帯の影響から、国土の大半が高地を占めているエチオピア連邦民主共和国。

この巨大な高地は、エチオピア高原と呼ばれており、標高は平均2,300メートル前後もあります。このため、北緯10°前後という赤道に近い低緯度に位置しながらも、平均気温は13℃と冷涼で過ごしやすく国民の半数以上がエチオピア高原で暮らしています。

また、高地という低酸素の環境で生まれ育ったエチオピア人は心肺能力が高く隣国のケニアと並んで陸上の長距離王国として有名です。

植民地支配を逃れた唯一の国家

欧米によるアフリカ分割が進められていた19世紀末において、アフリカ諸国で唯一主権を守り続けたエチオピアは、アフリカ最古の独立国と呼ばれています。

エチオピア帝国だった当時は、第一次エチオピア戦争(1889年〜1896年)でイタリアの侵攻を退けていますが、アフリカ諸国が欧米の列強国に次々と侵攻を許しているなか、エチオピアだけが独立国家として保つことが出来ました。

この理由としてあげられるのが「敵の敵による援助」と「地の利」という2つの要素と言われています。

当時のエチオピア周辺国は、イギリス・フランス・イタリアによって支配されており、エチオピアはこの3国の緩衝地帯でした。イタリアのエチオピア侵攻を牽制したいフランスは、エチオピアに大量の近代兵器を売却します。

その結果、イタリアは格下であるはずのエチオピア軍に予想外の苦戦を強いられてしまいました。そして最終決戦のディグレ州アドワの複雑な地形にイタリア軍が乱れるなか、エチオピア軍は10倍近くの戦力で見事に迎撃することができたのです。

ディグレ州アドワで勝利したエチオピアは、1896年10月にアディスアベバ条約を締結して独立国家としての維持が承認されました。

しかし、第二次エチオピア戦争(1935年〜1936年)で、イタリアに敗北したエチオピアはイタリア領ソマリランド(現ソマリア東部)、エリトリアとともにイタリア領東アフリカとなってしまいます。

ところが、この時のエチオピア皇帝ハイレ・シラシエ1世は、イギリスに亡命政府を樹立し辛くも国家の存続を維持することが出来たのです。

そうして、第二次世界大戦の1941年、イタリア領東アフリカに侵攻したイギリス軍によってイタリア軍が劣勢に立たされると、これに乗じてハイレ・シラシエ1世はエチオピアに再入城するとともに国家を維持することに成功しました。

混乱するアフリカ最古の独立国

独立を維持し復興したエチオピア帝国でしたが、今度は内部からの問題が噴出しはじめていました。

大旱魃による約10万人の餓死やオイルショック、南東部に住むソマリ人の反政府運動など相次ぐ混乱に見舞われてしまいます。こうして国民の不満が募った1974年11月に陸軍のクーデターによってハイレ・シラシエ1世は逮捕され失脚します。さらに翌年、帝政が廃止され13世紀から続いたエチオピア帝国の歴史は終わりを告げることとなるのです。

その後、軍部は社会主義国を宣言し、議長を最高責任者とする臨時軍事行政評議会(PMAC)を設置しますが、1977年に就任した議長メンギスツ・ハイレ・マリアム陸軍少佐は恐怖独裁政治を強行し、粛清という名の虐殺(エチオピア内戦により数十万が殺害されたとされる)を繰り返します。

また、メンギスツは1987年にPMACを廃止して大統領に就任し、国名を「エチオピア人民民主共和国」としました。しかし、1991年5月に独裁者である彼もまたクーデターによって失脚しジンバブエに亡命することとなるのです。

そうした中で、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の書記長だったメレス・ゼナウィが暫定大統領を経て首相に就任し、1995年8月に現国名である「エチオピア連邦民主共和国」が樹立されています。

悩まされる食料不足

エチオピアの主要産業は、GDPの5割近くを支える農業で、全労働者のうち8割が農業従事者となっています。しかし、アフリカの農業は自然の雨量に左右されることが多く、旱魃が訪れれば寛大な損失が出てしまいます。

長い間、政治の混乱や内戦による難民と干ばつ・飢餓などの貧困問題を抱えているエチオピアは、慢性的な食料不足に悩まされています。

2015年のエルニーニョの影響においては過去50年で最悪の被害に見舞われるなど、約1,000万人以上に食料支援が必要だと言われています。

コーヒーセレモニー「カリオモン」

エチオピアの貴重な収入源は、主産物であるコーヒーの生産です。現在、世界で最も流通量の多いアラビカ種のコーヒーの木はエチオピアが原産地になっています。

エチオピア人にとってコーヒーは特別な存在で、コーヒーを飲む際に「カリオモン」と呼ばれる伝統的な作法(コーヒーセレモニー)を用いています。カリオモンは日本における茶道のようなもので、エチオピアの女性にとっては結婚前に身につけておくべき作法と言われています。

また、コーヒー豆の産地は数多くありますが、そのなかでもエチオピアのコーヒー豆の産地「シダモ」と「イルガッチェフェ」は商標として登録されています。

実はこの商標登録に対して全日本コーヒー協会は産地名は商標登録できないと無効を主張し、つい最近までエチオピア政府と法廷で争っていましたが、2010年3月、知財高裁によって同協会の請求は棄却され、エチオピア産の品名の商標を認める判決が下されています。

独自の食文化

エチオピアは、中東や西南アジア、地中海方面の文化文明が行き交う地域にあり、様々な影響をうけています。

そうした影響を受けた独自の食文化として有名なのが主食の「インジェラ」です。史料では、紀元前100年には存在していたと記されているほど起源は古く、クレープ状のパンのようなもので、特徴として強い酸味やスポンジのような食感を持っています。

ワット(唐辛子で煮込む辛いシチュー)という具入りのソースと一緒に食べられることが多いですが、岩塩や青唐辛子を挟んだり、肉の炒め物、マメ類やキャベツの煮込み、チーズ、生肉なども付け合わせて食べられています。

エチオピアの世界遺産

農業以外の産業では、約350万年前の化石人骨アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)が発見された「アワッシュ川下流域」など、計8カ所の世界遺産を活かした観光業があります。

 

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1977年生まれ 宮城県出身 東京在住 調理師 ビジネスを通じて途上国・先進国の課題を解決することを目的に設立された 『MONSOON JAPAN』の一員として活動しています。